デトロイト郊外の「タッちゃんラーメン」

タッちゃんラーメン(限りなく実名に近い仮名)というラーメン屋がデトロイト郊外にある。タッちゃんラーメンは狭い店内にテーブル席が7席程度とさほど大きくなく、またキレイでもないが現地のアメリカ人また駐在でやってきた日本人にやたらと人気があり12時前に行かないと店外で待たされるというようなそういうお店である。

タッちゃんラーメンの名物はカレーラーメンである。アメリカに来て1か月にも満たない頃、「うまいラーメンが恋しくなってきただろう」と言われ会社から近かったこともあり同僚数名に連れられて行ったのが俺の初タッちゃんラーメンであった。

カレーラーメン以外頼んじゃダメ」

おすすめはカレーラーメンらしかった。恋しいだろうって言いながら、ひさしぶりのラーメン屋に連れてこられてスタンダードなラーメンが頼めないことにやや違和感を覚え、本当は普通の味噌とか醤油ラーメンが食べたかったところだったがそこに居た全員が妙にカレーラーメンをプッシュするので抗う術もなく俺は言われるがままにタッちゃん名物カレーラーメンをオーダーすることになった。

カレーうどんは経験があるがカレーラーメンというのは初めてである。10分もしないうちにカレーラーメンがやってきた。カレーうどんで見られるような麺に絡みやすい薄めのルウの奥には確かにラーメンの麺が眠っていた。

同僚もここしばらく来られてなかったのか「よっしゃぁ」など興奮している様子。タッちゃん名物カレーラーメン。しかしながら遥か彼方アメリカで暮らす日本人を虜にしたというその味はなんというか、実に普通だった。

≪カレーの中に麺が入っているだけだねェ。≫

それ以外の感想はなかった。しかしそれを言いだすとかつ丼もご飯の上にカツが乗っているだけかもしれないし、刺身は死肉、俺は服を着たオッサンでしかない。

カレーの中に麺が入っている。別にルウと麺の調和もなくただカレーの中に入った面を取り出して食べ、時々外側にあるルウを飲む、そんな食べ物のように感じられた。

子供の頃、母親が前日の土曜日に残ったカレーを用いてカレーうどんを作り翌日の昼食に出したことがあった。玄界灘に面した漁村育ちの父親はカレーうどんという舶来の食べ物の存在を知らず「食べ物で遊ぶなァ!!」と母親を一喝した悲しい事件を思い出しながらタッちゃんラーメンの奥から麺を取り出しを無言ですすっていた。

「うめえだろ」

二ヤリ。という表情で久しぶりのうまいラーメンに喜ぶ俺を期待した同僚たちが俺の顔を確認する。心の中で食べ物で遊ぶなよとは思っていたが別に美味いとは思わなかった。うめえうめえと言いながら食っている同僚にドン引きしながら一応「うまいっすねえ、カレーの中に麺があって」というような感想ともいえない状況説明めいたことを返してやり過ごした。

 

理由はよく分からないのだが、もしかしたらタッちゃんラーメンの中には微量の麻薬が入っているのかもしれない。それから一か月、半年と、アメリカ生活が経過する中で何度かタッちゃんラーメンに連れていかれ、最初は首をかしげながら、そして次第にルウの奥に何かを見出しながら、段々とこのカレーラーメンの味が病みつきになっていたのである。

「今週あたりタッちゃんラーメン行きましょうよ」

1年もしたころ、ついには自分からタツ兄のカラダを求めるようにすらなっていた。

ある時日本から来た出張者に「アメリカにも美味いラーメンがある」と自信満々でタッちゃんのカレーラーメンへ連れていく自分の姿があった。「カレーラーメンを頼んでみてください」「うまいでしょ」と問う俺には、芳しくない返事をする出張者の曇った表情は一切見えなかった。

こんだけカレーラーメンが美味いのだからと、ある時俺はふと思い出したようにタッちゃんには塩ラーメンもあることを思い出し≪カレーラーメン以外頼んじゃダメ≫の禁忌を破り、ウキウキしてそれをオーダーしてしまった。カレーラーメンだけでこの1年ここまで魅せてくれたタッちゃんに新しい魅力(ワールド)が追加されてしまうのか。俺はワクワクしながら塩ラーメンを待った。そして麺リフトからの実食。その感想は…!?

≪塩の中に麺が入っているだけだねェ。≫

それはまた一か月、半年と肌を重ねるであろうタツ兄との冒険の始まりであった。

 

子供のクマムシ崇拝

クマムシという生き物は俺が今更いうまでもなく有名なとにかくすごい生き物である。平たく言うとなかなか死なない。ヒトが目で見ることのできないミクロン台のサイズ。熱にも強く寒さにも普通の人なら泣いちゃう真空でもへこたれず高い気圧にも放射線にも強い。ガッツがありストレス耐性もすごそうなので企業の評価も高そうだ。クマムシを部下にしてみたい。手がすげえ多いのでマルチタスクも出来そうかもね。

無敵の存在はいつの時代も男子の憧れであるが子供たちがクマムシという存在を本で知って以来、その限りなく無敵の存在に近いこの生き物のすごさに感銘を受けたのか半ば兄弟の間ではクマムシ崇拝にも近い状態となってしまった。

ねえねえと事あるごとにクマムシのすごさをクマムシクイズといった投げかけや、時にクマムシ豆知識といった独り言のような形で俺に伝えてくるようになってしまった。へえクマムシすげえな。クマムシかっこいいな。その耐久性、憧れちゃうねえ。話題はクマムシ、反応する術は多くはない。

目視出来ないクマムシに注がれる尊敬のまなざし。寄せられるクマムシ情報。そして俺もとうとうクマムシが完耐えられる気圧を覚えてしまった。75,000。社会人になって最初に住んだ中野坂上の家の家賃と同じなので覚えてしまった。思えばクマムシのように俺も色々耐えてきた。お前たちを育てる為にクマムシみたいに耐えて来たんだ。ちょっと話を聞きなさい。子供たちのクマムシ礼賛を聞きながら俺も子供に褒められたい気持ちが高まってきた。お父さんはな、メールの返信がとにかく早いぞ。しかも結論から言っちゃうぞ~。クマムシに果たしてそれが出来るかな~。

今でも米が炊けるまでの時間を2時間ぐらいだと見積もってしまう

なぜか分からないが米が炊ける時間を実際より長く見積もってしまう。何となく「2時間ぐらいか…」などと思い込んでしまうのである。

いざ炊いてみると30分ほど、それは毎回炊いた後に「そういえばそうでしたね」と分かってしまうのだが、また次の機会になると「米が炊けるまでの時間というのは!とても長い時間なのである!」という強い錯覚から逃れることが出来ない。ものの30分ほどで炊けることは何百回も米を早炊きした豊富な経験から知っているのに、、なぜ俺は米を炊こうとする直前、そのとき見積もってしまう時間というのが果てしなく長い、時間で言うと2時間ほどになってしまうのだろうか。

「米を炊くのは一苦労、炊けるまでかなり待つ」

それはかつて子供の頃、母親が米を研いで炊飯器を押して炊きあがるまでの時間を2時間ぐらいに感じていた名残なのであろうか。食事の直前になって「アッ、米を炊くのを忘れた」など母親が言った時にはウワー終わりだー的なある種の絶望めいた感情が食卓を包んでいたような気がするし、今でも夕食の直前に米の炊き忘れに気づいたときにはあの頃と同じように嗚呼終わったという気持ちにもなるというものである。

最初の印象、特に苦手意識は何をやっても覆らずずっと続くものである。例えば仕事では入社して最初の上司はずっと怖いし、若いころ仕事で失敗した取引先は経験を積んでもずっと苦手意識は変わらず、アメリカに来て初めて一人で出張した街はその時の緊張感が毎回再現される。

初めて米を炊くのを手伝った時、研ぎかたの細かさ、水を何度も入れ替えたり厳密な水の量の見極めと言った面倒なアレコレにまず果てしない面倒さを感じ、それらをを経てスイッチを押したあとだからこそ殊更に炊き上がりを待つ時間がとてつもなく長かったような気がする。スイッチを押したはずの炊飯器はというと、さながらコンクラーヴェの煙のように、、「炊けることが決まりました」とそれっぽい白い湯気こそ出してはくれるが米があと何分で炊けるかという重要なインフォメーションはというと残り10分前になるまで一切秘密にしていたからである。

「炊飯器にすら米が炊ける時間は10分前になるまで分からない」

10分まで迄知らせないことを、俺は「炊飯器にすら分からない」と解釈していたのかもしれない。米を炊くのは繊細な作業。水の量、米の状態といった様々な要因が決める儀式めいたもの。この炊ける時間に関する「謎」が妙に米が炊けるまでの時間を神秘的に、そして曖昧にし結果2時間ぐらいかかっているような錯覚を起こさせるのかもしれない。いやそういえば確かに、今でさえ経験や統計的に30分ほどで炊けることが多いという事が単に分かってきただけで実際には米が炊ける時間というのはいまだ謎であり、そこに2時間の可能性を孕んでいる以上、今後もこの米を炊く時間を長く見積もってしまう奇病が治ることはないのかもしれない。

つーわけですが、俺と同じような米が炊ける時間が異様に長いものだと思い込むこの感覚が分かる人が居たら教えて欲しいものである。

スラムダンクを読み中学のバスケ部を思い出す

スラムダンクを全巻借りてきたのをきっかけに中学のバスケ部だった頃の事を色々と思い出していた。バスケットを始めたての小学から中学生の頃によく読んでいたからである。改めて読むとスラムダンクは万人受けと玄人受けのバランスを攻めた素晴らしい漫画で今も広く愛される理由もわかるというものである。

スポーツ経験でいうと最初は野球。兄弟で近所の少年野球に入っていたがプロパンガスの配達をしているおじさんが監督で、後に中学生が入店するとやたら万引きを警戒して近づいてくるヤツだと分かった小さな街のスポーツショップ経営者が当時のコーチで、あとは時々やってくる普段何をしているかわかんないけどいつもブチ切れて高いフライを打つオッサン、チームはこれらの者による意味の分からないシゴキめいた練習が多く、また若干治安の悪い地域の性格の悪い少年が多かったことから比較的City方面から来たお行儀のよい俺たち兄弟にやたらちょっかいを出してきたことなどもあり、まず兄が嫌になって辞めるとともに俺もやめ、そして申し訳ないが今でも野球というスポーツがいまだにあまり好きではないのは父親がプロ野球の放送を見て大嫌いな巨人が負けるたびに子供に当たり散らしたりなどととセットで自分自身の野球経験に根付いているのだろうと思う。

兄の影響を受けやすい少年だったので兄がスラムダンクとバスケ部に入っていた従兄弟に影響を受けバスケットを始めると俺もそれに続き小学5年生あたりから一人でひたすらバスケットの練習をしていた。当時日曜の朝10時ぐらいからNBA情報を放送するテレビ番組がありそれで更にバスケットというスポーツの魅力に取りつかれると「俺はプロになる」と日本にプロは無かったがそういう気持ちにもなり中学入学前までにひたすら家の前でシュート練習を黙々と繰り返し、中学入学後は周りが小学校でミニバスケット経験者だった中でも割と俺の方が上手かったりして多分調子にのって小ばかにしているように見えたのかハヤト君というめちゃくちゃ下手クソだけどもボスキャラみたいな性格の悪い少年に嫌われてしまい、よくあるあいつと口をきくな状態になると孤独に部活と家でバスケットを練習するストイックな少年と化してしまった。

そんなわけでこの頃は友達がいなくなってしまったので土日は部活がない日も一人で大好きなバスケットをする為にバスケットリングのある場所を求めて自転車で1時間とか、時には知らない美容室の駐車場に「西海岸!」的なオシャレ目的で設置されたリングに向かって勝手にシュート練習を始めてこらこらこれはオシャレ目的だからダメだよなど注意されたり、市民体育館が僅か50円払えばフロアを利用できると聞いてはその半面を一人で借り切って、雨でコートが使えないからと元々全面使って練習していた20人ほどの隣の中学校の女子テニス部をどかせて、一人のシュート練習の為だけに半面を20人ぐらいで使う羽目になった女子たちから冷たい視線を浴びながら淡々とシュート練習を繰り返したりもしたものである。とにかく中学生の頃は自業自得でグレた三井なんかより何倍もバスケットがしたくてたまらなかったのです。

俺をハブるよう指示していたバスケはめちゃくちゃ下手クソだけどやたらグループを仕切っていたハヤト君が2年の春に佐世保の中学校に転校し、同じタイミングでその夏3年生が中体連で敗退すると俺は練習態度が真面目だったこともあり副キャプテンになりスタメンとして試合に出るようになっていた。しかしながら、井出という教師がその同じ年に顧問になると彼とソリが合わなかったというか、小柄なのに無駄にバネがあって鼻がイチゴのようにブツブツであるばかりか、バスケは素人のくせに自分がちっちゃいが為に子供に対して妙に高圧的なことなど、とにかくこの男の全てが嫌いだった俺はそれが顔に出ちゃったのか、お前の事が嫌いだよという俺の言霊は井出がしっかりと受けとめスタメンどころか副キャプテンまではく奪という当時の中学生にとっての童貞以外の全てを奪われ、ベンチでいじけて井出を含むこの世界の全てをイジる性根の腐ったイジケ中学生と化してしまった。

後に井出がかなり遠い親戚だという事を知ってド・ヤンキーになるところであったが、この井出も早く居なくなれという俺の言霊もしっかりと受け止めてくれたのか3年の春に副顧問に格下げされ、顧問は市内の強豪校から異動でやってきた坂井先生という俺に本当のバスケットを初めて教えてくれた心の支障と出会うことになるのである。

教師で今も先生をつけ続けるのは坂井先生ぐらいである。小学、中学、そしてのちの高校に至るまで、自主連かクソの顧問各位のひどい指導しか経験しなかった俺が人生の中できちんとバスケットを習ったのは恐らく坂井先生がやってきてから引退するまでの僅か3か月ほど。練習はハードであったが具体的で実践的だった。チームは試合に勝てるようになり俺を得点源としてスタメンとして使い続けてくれた。本当に楽しかった。

坂井先生とは中学のバスケ部引退後に2度会ったが、1度目は高校の部活の試合、先生は俺の出た試合の審判として見守ってくれたが高校では補欠で、中学で指導してくれた先生の前でカッコつけたくてうまくやろうと力んで全くダメだった。2回目は大学生の時。正月に帰省した折に地元の歓楽街の中華料理屋で飲んでいたらベロンベロンの坂井先生が店内に入って来たときである。この店に来る前に寄った、平たく言うと景品が全てアダルトビデオのゲームセンターにあるセクシーな女性映像とジャンケンするマシーンでガンガンに勝ちまくって獲得した7本のアダルトビデオを、俺に本当のバスケットを教えてくれたお礼にと先生に渡すとベロンベロンの先生はとても喜んでその中のよさそうなもの4本を快く受け取ってくれた。教師で今も先生とつけ続けるのは坂井先生ぐらいなものですから、俺はアダルトビデオを先生に渡しながら「先生」、「坂井先生」というと「ビデオのときは先生っていうな!」というひょうきんなシャウトをなさい、色んな事があったが「ビデオのとき」というMiyaviな表現をされたこの先生にバスケットを教えてもらえたことを本当にうれしく思った。

坂井先生の指導の集大成である中体連の市の大会の試合前、俺たちは当時副顧問であったただの小さいオジサン、井出に突然呼ばれ体育館横に並ばされた。バスケ素人の井出は副顧問になってから部活内で殆ど発言する機会もなく元々小さかった身長も僅か12㎝になっていた。

井出は神妙な表情でかつての教え子たちを前にこう語りだした。

「お前たちは俺が指導していたときはもっと生き生きしていた。」

イントロ以外のその先は覚えていないがとにかく今や身長が12cmなので目視は出来ず、とにかく間違って井出先生を踏まないようにと部員の皆は気を付けてその場を去り試合に臨んだ。

昨日の夜、スラムダンクを貸してくれた人に誘われて久しぶりにバスケットをやった。バテて何も出来ず突き指をしケツを打撲し満身創痍だったが楽しくて、中学校の時に起きていたそういう出来事たちのことを思い出していた。

俺たちの中にあるそれぞれの"仏の道"…

オリンピックの開会式を家族でぼんやり眺めていたときのこと。東北のお盆の映像が流れたときにチラっと映った人の顔を見て子供が「昔の祭りをやっているのに眼鏡をかけている人がいるのが変だ」という反応をしたのを聞いて≪フフフ、その気持ちを大事にしなさい≫と父親は目を閉じコクリと頷き聞いていた。

そう、これはいわゆるお盆のスクーター僧侶現象である。第三者が勝手に〇〇はこうあるべきと決めつけ、こうあってほしいと願う気持ちから勝手に違和感を抱く現象。僧侶にはどんなに遠くても徒歩で移動してほしい、僧侶は目が悪くなっても眼鏡などかけず我慢して裸眼で過ごしてほしい。

「いやあ、だってそれが”仏の道"ってもんでしょうがい?」

知らないくせに勝手にこうであるに違いないと決めつける俺たちの考える仏の道。禁欲、俗世離れを期待してしまうのは世界まる見えテレビ特捜部で見た小乗仏教の僧侶の影響か。あの番組で形成される俺たちの僧侶観。

若いころは日本の仏教より何となくいろいろ厳しそうな、つまり厳しさの最高峰と思っていたチベット仏教ダライ・ラマがなんとあの”眼鏡”をかけて来日してきたときは何かしらんがエッとなってしまったし、更にダライ・ラマがあの”飛行機”に乗って来たのだという追加情報を聞いたときは「エエっ?!”仏の道”的にそれって大丈夫なん?」と勝手に作ったホトケ・ロードからのコースアウトを心配してしまったものである。何となくダライ・ラマは帆船とかで風にのって乗ってやってくるのではと思ったのは遥か昔の社会の授業で習った鑑真の影響かもしれない。

さかのぼれば俺も自分の子供と同じぐらいの頃、祖先の墓参りに行ったとき、僧侶からのお言葉的なやつで出てきた茶菓子がチーズおかきだった時に何かわからんが≪罰当たりなのでは≫という子供なりの大胆かつザックリとした罰当たり判定が出たものである。決して食いたくはないが野草などで出来た饅頭などが出てほしかったからである。

時代は変わり、最近では僧侶もPC、スマホを操りインターネットで発信する時代。

「僧侶なら紙に筆で書いたものを街頭にて配布するもんでしょうがい?」

SNSで見るが、寺の掲示板で競うようにポップソングの歌詞や若者にも身近な名言などを引用した「おもしろお言葉」を掲示してことごとくおバズりになる住職が多いのも、結局人々の中にスクーター僧侶的な感覚があってそのギャップから生まれるおもしろさかもしれず(身近にあるはずなのに存在するその距離を埋めるためにああいった身近な言葉がピックアップされているのかもしれないが)、しかし案の定おバズりになったツイートなどを喜び味を占めてガンガン他人の歌詞などを無断引用する僧侶を見て≪罰当たりなのでは≫と思うのはそれは確実に正しいので皆さんその気持ちは忘れずにどうかそういうバズに魅せられし掲示板芸人などは甘やかさんように厳しい目でみてあげてください。それが俺たちを正しい仏の道(ホトケ・ロード)へ導くものだから…。